年に一度会うか会わないかの友人だけれど、
たまに出会ってお互いの気づきをシェアしあうような大切な友だち、
そんな存在が誰にでもいらっしゃるのではと思います。
わたしにとってのその人もまたふだんは小まめに連絡もとらないのだけれど
会うととても久しぶりにあったにも関わらず
話題がいきなり深いところに潜るような
そんな大切な存在です。
今年の初夏に彼女と再会したときに
わたしはある人の言動や振る舞いに悩んでいて
「ああいう時に、あの人はなぜあんなことをするのだろう」と相談したことがあります。
その人のことは、もう何度となく違和感があり、ずっと我慢(?)してきたけど
思い切って私がなにか悪いことをしたのか
それともそんなに私が嫌いなのか
なぜそのような態度で言葉なのか
本人に尋ねてみたいほどだと彼女に相談したときに
彼女はそれは直接に尋ねない方がいいと言いました。
ここに書き記してみます。
人に本心を聞いてみたところで
どうだろうか
その人はほんとうのことを言うだろうか
言葉は
人の言葉はほんとうのことを言うものだろうか
人の言うことなど
言っている本人でさえ、その本心が分からないことがある
たとえ本心を自覚した上で、そういう言動や振る舞いをしているのだとしても
その人があなたにその「本当のこと」を言うだろうか。
だから相手に尋ねても仕方がないと思う。
それよりもあなたがその出来事から
自分の軸を天に向かってすーーっと立てて
もっとその上の方で繋がって
そこから、そのことからの(自分はどうしていきたいか)メッセージを受け取る方がいい。
何が起こっても、わたしたちに出来ることは、常にそれしかない。
おおまか彼女はそういう内容のことをわたしに言ってくれたのだ。
そのとき、わたしは日頃の愚痴や我慢していること
もろもろを聴いて欲しいと思っていたのですが
(それは酷いね、とか大変だったねとか同調して労ってくれることを期待していた)
彼女から期待していた言葉や対応は一切なかったにも関わらず
わたしの気持ちは、すーーーっとおさまり
彼女に私の愚痴や不平不満、そういうくだらないことを聞かせることなく済んだ
自然に気持ちがおさまっていったことを覚えています。
椎名林檎の「ありあまる富」という歌の中に
「もしも 君が彼らの言葉に嘆いたとしても
それはつまらないことだよ
なみだ流すまでもない筈
なぜなら 言葉は いつも嘘を 孕んでる」
とあります。
この歌詞を聴いた時、わたしは椎名林檎は心底、天才歌手だと思いました。
そして歌詞と友人の言葉がぴったりとあったのです。
昔の私は人の言葉に非常に傷つきやすいところがありました。
感受する神経の糸が細すぎるのか過敏に受け止めすぎるのです。
痛みが伴いやすい。
人の気持ちに同調しすぎるがゆえかもしれませんし、
あるいは自意識過剰といってもいいのかもしれませんが。
とにかくそれはじぶんの生きづらさのひとつでもありました。
しかしこの頃は感じます。
自分が天と地と繋がる軸をしっかりと中心に立てていさえすれば、
その軸さえしっかり持っていれば
人の評価によって私の価値が上がったり下がったりすることはないということを。
逆に自分の評価を誰かに委ね、
その相手の評価によって自分の価値が決まると思い込んでしまうと
その状態は
完全に相手の軸(価値観・評価)に自分が乗っ取られているのだといってもいいと思います。
人は生きている限り
不完全な人間同士ゆえに
親子兄弟家族親戚
仕事の現場、クラスメイト、体育会系の部活、地域、
生きている様々な現場に所属し、そこで自分を取り巻く人間関係
上下の繋がり、横の繋がり、パワーバランス、ハラスメントなどに苦しみます。
被害者としても、加害者としても。
あるときは
嫌みを言ったり言われたり
舐めたり舐められたり
自分には声をかけてもらえなかったり
それによって凹んだり貶められたり
そういう幼稚な「若気の至り」的レベルなことを除いても
年のせいか楽になってきました。
だれか分からず屋にまたずいぶんとお門違いなことを言われても
それはあくまでその人の軸での考えであり
その人の(色)眼鏡に映る自分(わたし)であり
わたしの実像ではない。
その人はわたしのことをよく知らない。
その人が知ろうとする見ようとする範囲でしかわたしを知らない。
そういった他者に映る鏡によって自分を確認し軌道修正することも成長期には大切ですが
あきらかに相手の判断がおかしいときに
じぶんが傷つく必要がないのだと思います。
自分が天と地としっかり繋がって間違っていないことを確かに感じているのであれば
自分が相手の評価によって自分の価値や値打ちがさがるわけもなく
その評価内容は「相手の軸」相手の都合でしかないのだということを。
そうやって相手の課題と問題
じぶんの課題と問題をきれいに棲み分けてとらえることができると
問題解決のためにじぶんが何をすればいいのかも分かるし
たとえそれによって期待していた結果や反応が相手や周囲からなくても
そこから先は相手側個人の問題と課題であるので
自分の問題と課題と切り分けることが要だと思います。
相手の出方に惑わされず自身の心が落ち着いていられることが大事なのだと思います。
もちろん自分の在り方に問題があるのならば、気づいた時からただちに修正しなければおかしな方向へ邁進することにもなるでしょう。
じぶんの軸を持つことで肝心なところは
天と地と繋がっていることで
これが単なる我が儘な「自己中心的な軸」であれば
その後も自分と似たようなレベルの他者との小競り合いや諍いや
無駄に張り合うことも耐えないでしょう。
今朝、BSプレミアムを観ていると火野正平さんが「こころ旅」で
視聴者からの手紙を紹介されてました。
会社の人間関係に悩んだ末に7年務めた会社を辞めた女性の手紙を読んで
「人の悩みって、ほとんど人間関係だよな」とぽつりと呟かれたあと
正平さんは「オレは自分の中で座右の銘にしている言葉がある」と仰られました。
「オレは人には寄っていかん 人がオレに寄ってくる 」
正平さんから会社を辞めた女性への強いエールに感じました。
そしてその人の意識がその人の人生を作るとあらためて認識しました。
まさに火野正平さんの人生や生き様、芸能界での仕事の仕方とはそんな感じではないでしょうか。
相手がおかしいのなら
それが職場の上司であれ先輩であれ
自分の軸を棄ててまですり寄っていかなくていいんですよ。
そう慰めておられるようにも感じました。
澄月会では、合気道の体術を行う前に一番最初に呼吸法を行います。
準備運動よりも先にまず一番はじめに行います。
(もちろん準備運動で身体をほぐしてから呼吸法をする方がいいと考える方もいらっしゃると思いますが、わたしは自分が主宰する場では自分がこれがいいのでは?と思ったやり方を検証するように実験的に行っています)
頭の百会(ひゃくえ)から身体の中心軸が会陰部を通って踵の合わせ目を通って
地球の核にまで繋げ結んだ軸を想像して頂きます。
その軸が自分の中心を貫いているようにイメージしてもらいます。
あるいは地球の地軸と一体化しているような感覚。
そこから始めています。
それをやり始めてから
以前の自分のように人の言葉や振る舞いによって右往左往することが少なくなったと思います。
よい意味での開き直りというか
人は人
私は私の中心軸と繋がり
天命を全うしよう
そういう気持ちでいるときは
安定打坐な状態に近づいているかもしれませんね。